〈寄稿〉アイスグラタン(筑波大生)
リバタリアンの立場から考える 全代会の「代表性」
「筑波大生は全代会だろうか?」。この問いは私のオリジナルだが、よく似た問いを投げかけ、それに答えてみせたのがマレー・N・ロスバードである。彼は『国家の解剖』の冒頭で「私たちは政府である」という命題をごく簡単に検証し、否定してみせる。もし「私たちは政府」なのであれば、ナチスによるユダヤ人の犠牲者は「自殺」したことになる。なぜなら、ナチスは民主的に選ばれた政府であり、それゆえにナチスがユダヤ人にしたことは「自発的」だと見做せるからである。当然ながら、このような馬鹿げたことはあり得ない。政府が人民の中の多数派を代表し、少数派を皆殺しにするよう決定しても、それは自殺でもなんでもなく、ただの虐殺、殺人である。
ロスバードの議論が理解できるなら、全代会が私たちそのものでないことは十全かつ明瞭に理解される。全代会がある宿舎入居学生の問い合わせに「一部の学生の意見にだけ耳を傾けるわけにはいかない」という趣旨の記述でもって応じたという事実が、この理解を補強するだろう。ちょうどナチスが「一部の国民」であるユダヤ人の生命や権利に関心を払わなかったように。ナチスは極端な例のように思われるかもしれないが、どんな政府も「一部の国民」に注意を払わないのは、程度の差こそあれど同じだ。
「代表」というまやかし
政府にせよ、全代会にせよ、「代表者」というものはどうにも曲者である。ロスバードは、真の「代表」というものは、自身の委任者の命令に常に従い、いつでも罷免可能で、委任者の利害や希望と反対の行為はできないのだと述べる。なるほど、このような代表者がいれば、事態は多少はましかもしれない。筑波大学はどうだろうか。全代会とその幹部らが自身の委任者、つまり私たちの命令に従っているのか、その利害や希望と反対の行為を行なっていないのか。これを知る術は、少なくとも今の私たちにはない。そして、全代会の側も、私たちにそれを知らせる気は毛頭ないようだ。彼らの取り組みの実態は「機密情報」の厚いヴェールに覆われている。そのヴェールを、全代会構成員が内側からほんの少しずらせば、容赦無く罷免に追い込まれる。それが今回明らかになったことである。彼らの機密保持の情熱はどこから来るのだろうか。委任者たる私たちに対する背信行為が露見するのを恐れているのか、あるいは、大学からの寵愛を守るために委任者への義務を蔑ろにしているのか。どちらにせよ、それは真の「代表者」にあるべき態度ではない。
「代表者」を同じく批判した戦前の右翼思想家、権藤成卿
私はここまで盛んにリバタリアンであるロスバードを引いてきたが、ここまで書いてから、戦前の右翼思想が似た問題を取り扱っていることに気づいた。私は決して戦前の右翼に詳しいわけではないが、その中に「一君万民」を夢見て「君側の奸を除く」ことを主張した人々がいることは知っている。三島由紀夫のいう「国民の意思が中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結するということ」を目指した思想家には、おそらく権藤成卿も含まれるだろう。権藤成卿は、国民と皇室の間を財閥、政党、官僚といった中間権力機構が遮っていると述べ、君の存在を基盤にした社稷による自治社会を志向した。もちろん、大学には皇室も社稷もないが、「代表者」面した中間権力機構が、イデオロギーを超えて様々な形で非難されてきたことには注意を払ってもよいだろう。
私はこれまでさんざん全代会をはじめとした「代表者組織」を腐してきた。だが、だからといって有力な対案があるわけではない。現状はおかしい。それは確かである。だが、全代会を見捨てて新たな自治組織設立を目指すも、全代会を改革するも、全代会にも大学にも政府にも国家にも絶望してその全てを廃絶することを目指すも自由であり、その選択は読者諸賢に委ねられている。あなたがいかなる闘い方で現状を打開しようとも、本稿をきっかけに闘うことを選択してくれるのであれば、筆者としてこれに勝る喜びはない。健闘を祈る。
(マレー・N・ロスバード(1926~1955) アメリカの政治哲学者・経済学者。ポーランドとロシア系移民の家庭に生まれる。「無政府資本主義」を唱え、現代リバタリアニズムの形成に大きな影響を及ぼした。/権藤成卿(1868~1937) 農本主義者。主著「君民共治論」は『日本型コミューン主義の擁護と顕彰』(内田樹、ケイアンドケイプレス、2025年)で比較的容易に読める。)
